昭和五十六年一月十九日 朝の御理解


御理解 第九十九節
 無学で人が助けられぬと云う事はない。学問があっても真が無ければ人は助からぬ、学者が身を食うという事がある。学問があっても難儀をして居る者がある此方は無学でも皆おかげを受けて居る


 福岡の川上さんの御信心の教導。教導というかお導きで信心の有り難い事がだんだん分かっていかれる方があります。月次祭には昨日が始めてだったでしょうかお参りになって今度御理解付きの福引を頂いたら此の世には魂を清めに来ておるのであるという札を引き当てた。それを持って帰ってまあ、おじいさんですけれども御主人に見せられたらすばらしい教えだねえお前がお参りするならば、お神酒を一本お供えしてくれというてまあお金をことづけましたというお届けがあったんです。魂を清めるという事がそんなにすばらしいと分かるという事だけでも有難いですね。
 教祖様がおっしゃっておる無学でもこの方は人が助かっておる。学問があっても真が無ければ人は助からぬと、結局ここでいわれる心一つですべてを創る、という事だけでも私は人間が分かったら世の中がもう少しましな世の中がましな清まるおかげになってくると思うのです。この世には魂を清めに来たのである。もう人間の幸福は魂一つで心一つですべてを創る程しの総てを頂ける程しの働きがあるんだという事が分かればねもう少しは心を大切にするいや大切にするというだけでは分かりませんから大切にする手立てというものをです、もう少し本気で皆考えるようになるだろう。そして、そこに本当に魂を清める手立てというものが説かれてあり教えてあるという事が分かったらもっともっと世の中は明るい美しい世の中が出けてくるだろうと、そういう意味で合楽の御縁を頂いておる人たちはそこに責任のようなのを感じるおかげを頂いてもらいたい。
 ここでは本気で信心、教祖様もおっしゃっておられるように「信心は本心の玉を研くものぞや」とおっしゃってある「信心とは日々の改まりが第一ぞ」ともおっしゃっておる。改まらなければ、本心の玉を研かなければ人間の幸にあり得ないんだという事。いかに技術が優れておるというてもいかに学問を身につけたからというても真がなからなければ人間は幸にはなれない。だから真でさえあればよいとまあ云うたり思うたり致しますけれども、その真が問題なんである。どこまでが人間の幸せにつながるような真「正直の頭に神宿る」ねえ、真さえあればとその真さえあればですけれども、その真が人間の幸せにつながるものでなければ正直であるが為に一生を清貧に甘んずるという人たちがあまりにも多い。
 私達は悪いことはせんから神様やら信心せんでん真さえありあええ人間な真直ぐ行きさえすりあええ、そうどころじあない。所が自分が真直ぐと思うておる事が真直ぐでなかったり、自分は真、真心だと思うておってもそれはいこじないものであって真でも真心でもない、いうならば幸せにつながらない真であったり正直であったりしたんでは話しになりません。
 金光教教祖はそこん所を確かに本心の玉を研く術すべであり、日々の改まりを強調される。そして改まっていくその手立てが研いていく手立てが合楽理念によっていよいよ克明にいよいよ誰でもそれこそ学問といえばやはり勉強をまあ頭がよくなければ学問を進めていく事は出来ませんけれども、頭はよくなくてもいや学問はなくても、その真さえあればその真はこういう生き方それを自分が真の人にもならせてもらおう。正直な人にもならせてもらおうと念願する限り、誰でも容易にそれこそ子供でも行じていけれるような手立てが合楽理念なんです。しかもその気になって研こうというになり、その気になって改まろうという事になると、いうならば信心の喜びが叶えられる。これは叶えられるもんです。喜びたい喜びの妙に触れたい。これは、私共が本気で魂を清めもしよう改まりもしよう、精進、信心、辛抱もさしてもらおうというような心にいうならば発心させて頂いてそれに取り組ませて頂く事が天地の感動を呼ぶというか、神様のお喜びを頂くものと感じられる。そこに信心をしなければ頂けないおかげではなくて信心をしなければ頂けない心の喜びが頂けれる。その喜びをいよいよ育てていこう。それをいよいよ極めていこうというのが信心なんです。
 ほらあ合楽に参ってなさい。おかげ頂きますよと、医者の見放した病人が助かりよる。もう開けん筈の道が開けますよというだけがもし信心であったらです、世の中が明るくなるとも清まるとも、もすこしましな世の中が出けるという事はありません。昨日のお目次祭にお参りして来たその方が云っておりますように、自分はおかげを頂いてそれでまあ川上さんの信心のお話しを聞いては信心をまあぼちぼち進めておる所なんですけれども、御主人は信心をあんまり喜ばれないまあタイプなんだ。所が、今度引き当てた札が金光様の信心、合楽の信心とはすばらしい信心、すばらしい事だなあというふうにおじいさん感じられたのじぁないでしょうか。その札をみて「信心とは、この世には人間の魂を清めに来ておるんだという言葉をみて感度された。感動というまでじあないだろうけれどもともかくお神酒を一本お供えしてくれというてお神酒料をおばあさんにことづけられたというのです。
 もし本当にこれもあれも川上さんのおかげというて、お導きをして下さる川上さんの事をも一緒にお礼をいわれます。本当に信心とは魂を清める又この世には私共は魂を清めに来ておるのに清める事のだんには全然心を使わずにただ幸せとは金さえあれば健康でありさえすればといったような所で一生を終っていく果てていくといったような事では本当にこの世に生を受けたいうならば値打ちがない。いつ又魂に取り組ませて頂く機会を無くしてしまう。そういう意味でさまざまな事から縁を頂いて合楽におかげを頂いておる方達はその事、いうなら心一つで人間が幸せになれるんだという道を教えて頂くのですから合楽に御縁を頂いていく人達は確かにこの世には魂を清めに来ておるんだという事をですいうならば根定にしての信心の稽古でなかろにあいかん。だから清めんぶんが損、清めなければ馬鹿らしい。この世には魂を清めに、この世にはおかげを頂に来とるというのじあないんです。そこをぎりぎり本当に分からせて頂かないとどんなに学問があっても間違いがおこる。
 それこそ、先だってある方が或るお医者さんが云われたという御神米を頂いとうたら、そういう非科学的なことではと、まあ非科学と決めつけられたとこういう。信心で頂くおかげというのはちぁんと理があってとの事。それを学問的に説明こそ出来ないけれども、云うなら超学問であり超科学である。だから超がつくようなあれあれという程しのおかげが頂ける。
 昨日は私の体を見て下さるまあ山口の浅野さんの御長男が糖尿病の権威といわれる程しに糖尿病を研究しとられるお医者さんです。月に一回か二回来て診察をして下さいます。その道具器械まで持ってみえてその上に戎浦さん達が夫婦で文男先生がいつもその先生を乗せてやっていうなら五、六人がかりで私の体を診て下さるわけです。どうも私のその目がこうしてうすくなったのも、糖尿病にせいではないかと云うので先生の心やすくしておられる眼科のお医者さんをこの頃は同道で二人で来て頂きます。
 まあ本当にやっぱり学問というのはすばらしいもんです。目薬をさすとねこの瞳孔が開いてしまう薬があるんです。昨日はもう診察が終わってから丁度、お昼になりましたからお食事を一緒に差し上げよりましたら、私の目がぼやーっとかすんでしまってからいよいよ見えんごたる感じですもん。
 けども折角目のお医者さんに診てもらっていろいろしてもろうて見えんごつなったらいうちや気の毒かけん、そこんにきが私がふうたらぬくかとこですもんね。いーきらんとですたい。こげん目がかすんでぼやーっとなりましたら云いきらんでおりました。それからお神酒でも頂いてちょっと疲れましたからやすませて頂いとったら、あの戎浦さんが見えましてから先生が忘れとんなさってからその瞳孔が又こう縮まる目薬ばさすとば忘れとったち、一杯機嫌で思い出しとんなさるとですたい。それから又あの目薬さして頂いたら元に戻って見えるごつなりました。
 学問ちゃ、いい加減なもんぢゃありますばい。一つ忘れたらねもうちあんと見えんごつなる。そんないうならばすばらしい目薬も出けているわけ。だから一つまちがうと詫びれば許してやりたいというような事じゃない。取り返しがつかないような事になる事がいるならば注射の打ちそこないですかね、いうなら投薬です。薬を間違えていわば薬害です。薬の為に体が動かんごつなった。昨日は丁度そん時テレビで、あの手の短い赤ん坊のあれがありよりましたがね。妊娠中にひどい薬を注射をしたからだそうですね、あれは。何とか云いよります。そういう事にもなりかねないのがいうならば医学なんです。
 人の命を助ける事が出来るかと思うとるとその目がだんだんかすんでかえって見えんごつなるち、昨日は先生がその教典が私が読まれんてこの前申しとりましたもんですからドイツの眼鏡ば持って来てここへ来て下さっとるばってん、これが今ちょっと見ろうと思うたばってん組み立てがおおごつ(大変の意)分からん。だから本当に神様に頂いておるこの目でなからにいけませんですよ。いよいよ目が見えとる時には当たり前ごつ思わずに、もう本当に心からお礼を申し上げて使わしてもらうようなね、見えんごつなってからじゃ遅い。
 目だけの事じぁありませんけれどもね、そういう点で信心はね人間の事ですから生身凡夫の事ですから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりませんけれども詫びれば許してやりたいのが親心じゃというようなね、ような仕組みになってるんです信心は。まあ私のごたるおろよか人間、私のごたる人間じゃとてもおかげ頂けまいちいうこたあないのです。どういう人でも一たびそこに人間この世に私共は魂を清めに来てるんだという事が本当に分かっての魂に取り組ませて頂こう。しかもその取り組む手立てが合楽では説かれるのであろうし教えて頂くのであるからと合楽に通じてくるようにならなければ、だから合楽通じの値打ちはないという事になりますよね。
                 どうぞ